こんな表現をするとあの有名小説みたいだが、まぁ、我輩の冒険旅行に付き合ってくれるみんなの為に、気楽に書き始めることにしよう・・・ 元はといえば我輩の足がソーラーカーとしては異常に頑丈にできていることから始まった話であった。 1995年、夏の終わり、南青山のとあるビアガーデンでのこと・・・ 「俊樹さん、うちの連中がどうしてもオーストラリアに行きたいって言うんでね、素人の我々でも大陸縦断が可能な丈夫なフレームを設計してくんない・・・?」 「ああ、いいっすよ・・」 我輩の父である山本久博と、ホンダのエンジニア高橋俊樹との間でこんな会話が交わされた。 高橋は山本が実行委員長を努めるソーラーカーレースの競技長として深い付き合いがあった。 そんな設計のプロに山本は随分図々しい注文を出したものである。 設計条件は: * お金がないのでコストが安くできるもの。 * メカニックの専門家がいないので極力メンテナンスフリーに・・・ * 市販の安くて丈夫なパーツを使うこと。 * 設計上の最高速度は100km/h こんな条件を二つ返事で引き受けた高橋は数ヶ月後に実にユニークな、そして素晴らしいアイデアが満載のフレーム設計図を届けたのであった。 フレームの素材は市販のアルミ角パイプ、しかし彼の選んだそれは120mm×60mmという太いもので、軽量を良しとするソーラーカーの常識からはかけ離れていた。 「こんぐらい太いとフレームの捩れは無視できるし、薄いボディを支えるのには最適です。それになんてったって材料費が数万円というのが魅力だよね・・・。」 なるほどA字型にレイアウトされたそのフレームの両端にしっかりと踏ん張っているオートバイのフロントフォークは、みるからに頑丈に、そしてシンプルにまとまっていた。 そして更に目を引くのがリアサスペンションであった。 これらの特徴が、その後の我輩の活動の大きな支えになってきた事は言うまでもない。 「山本さん、このフレームならオーストラリア3回は行けるで・・・」と、フレームの製作を引き受けてくれたSimonの安井さんの弁・・・!! 安井さんの保証どおり既にオーストラリア大陸縦断レースを2回ノートラブルで完走、1999年大会ではプライベートクラス準優勝のおまけつきである。 我輩のそんな丈夫さに自信を深めた山本は・・・ 「こんどはシルクロードやりたいね・・・!!」 こんな事を言い始めたのであった。 「Mr.Yamamoto,グットアイデアデース!!,ワタシモイキマース・・・!?」 世界ソーラーカー連盟会長のハンスと山本が会えば、すぐにこんな無茶な話が膨らんでいくのだ・・・(笑) 幸いというか不幸というか・・・、シルクロードの計画は3年経っても中国側とすんなり条件がまとまらなかった。 古代の交易ルートを21世紀の技術のシンボルともいえるソーラーカーで駆け抜けるシーンはハンスならずとも魅力を感じるも 「Mr.Yamamoto,シルクロードはベストチョイスです。でももし無理ならばロシア横断をやりませんか?」ハンスがこんな提案をしたのは2000WSRに役員として参加の為に大潟村を訪れた時である。 「それも面白そう・・・」なんでも興味を持つのが山本の悪い癖!?・・・である。 早速二人は秋田港に停泊中のロシアの貨物船の船長を訪ねてロシアへの輸送の可能性を探る。 結果は良好・・・、1日半から2日でロシアに到着。輸送も問題なし。距離的にも中国ルートに比べ3〜4000km少ないルートである。 山本がかねてから購入してあったロシアの道路地図を見る限り、道はある・・・!? ただし、極東から内陸部に入るあたりに200kmほど道路のない部分があり、ここは列車による移動が避けられない。 山本は早速運輸省の陸運事務所を訪ね、ロシアからデンマークまでの車両の通行に関する許可申請の詳細を調べた。 担当官いわく「最後に秋田から海外に渡った車両は昭和62年なので申請書類をもう一度作りなおすことにします・・・」と。しかし聞けば申請費用もそれほど大きな額ではなさそうだし、相手国がジュネーブ協定を結んでいるなら国際ナンバープレートをJAFに申請すればOKとのこと・・・ そんな中、山本の友人で青年会議所のOBの土方氏の紹介で、パン・パシフィック交易というロシアとの貿易を手がけている会社の伊藤社長が相談にのってくれる事になった。 伊藤氏からの情報では * 道路のコンディションは良くない。 * 気候はかなり良好で、特に6月は白夜に近い状態でソーラーカーにはうってつけかも・・。 * 秋田港からポシェット港まで定期のコンテナ便がある。等など 次に、秋田県の国際交流課を訪ねロシアから交流員として着任しているゴミロワ嬢に会い、ロシアの情報を収集する。 彼女いわく「是非やりましょうよ!、私も一緒に行っても良いです・・・!!」なんと頼もしい助っ人である。
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